「私たちは小美人です」

kakeru33072004-12-02

■「ゴジラVSモスラ」★2/5


シナリオの完成度は高い。でも、それは雑誌「シナリオ」的評価軸での話で、ゴジラとしては問題外。離婚夫婦、環境問題や不動産開発、そういったイマドキのアイテムで組み立てるのは「火サス」「Vシネ」的アプローチ。大森一樹は永遠にゴジラに届かない。



大森的アプローチでゴジラ映画は成り立たないことは『ビオランテ』のときからわかっていたはず。しかし、ゴジラそのものの造型や、現代の技術でブラッシュアップされた特撮に、ゴジラファンすらも幻惑されてしまい、配収は伸びた。そういうことだったんだろう。

それにしたって、「シェー」とかミニラ、ジェットジャガーに失望していたパパたちが、そんな怨念の分財布のひもがゆるくなっていて、子供たちを映画館に引っぱって行ったんじゃないか? そんな気がする。

本作は、いたずらに現代的なドラマ部分がまず足を引っ張っていた。そして、三匹の対立構図にしても、最後のバトルの成り立ちにしても、お題目ばかりが先走って観念的。ゴジラ映画としてのシンプルなカタルシスはどこを探してもない。

大河原孝夫の他の作品を見る限り、彼はカタルシスの演出ではなく“空騒ぎ”のお膳立てしかできないような幇間芸的クリエイター。彼がこの後もゴジラのメガホンをとってどうなったのか……はご存じの通り。


※以下はネタバレ


小美人に「私たちはコスモスです」と名乗らせてしまうのも、藤戸拓也(別所哲也)に「じゃあ、宇宙の……」と無駄な説明セリフを口に指せるのも、肝心なものは何も持たず、余計な表面上の演出だけに走る彼の演出手法の成果だろう。

小美人は、自分で名乗ったりしない。

人類と小美人の関係性も理解できない作り手に、ゴジラ的世界観に対するリスペクトを期待するのは全く無理な話。


「怪獣映画」として楽しませてもらそうとしても、クライマックスでゴジラの相手が2匹とも空をフワフワ飛んでいるだけでは迫力の出しようもない。直接のコンタクトが無いから、苦肉の作として大観覧車の凶器攻撃を演出しているけれど、あれこそまさにプロレス的お約束(バトラは一応「正義の味方」なのに)。押しつぶされるのを待っているゴジラが健気というか、はっきり言ってマヌケに見えた(あれではドリフのコントの「志村! うしろうしろ!!」)。みなとみらいのセットがよくできていただけに、余計に残念。

この時期一連のゴジラ映画を、「平成VSシリーズ」といった呼び方をすることもあるけれど、大森三部作の対戦相手は、触手→羽根→羽根×2。結局フルコンタクトのバトルは一つも無かったことになる。

だからこそ、対決そのものよりもそこまでの演出こそが大事になっていたのだろうし、ことそういった点に関して、たしかに大森の芸は「細かかった」。でも、その観念的な演出の副作用として、「ゴジラ」としてはちょっとした奇形になってしまったのだろう。
CinemaScapeゴジラVSモスラ」拙コメントより)


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「コスモス(写真)」が自分で名乗ってしまったことはさておき、初代「小美人」は、本当はなんて名前なんだろう?