「Love Letter」★2/5

地上波で「Love Letter(岩井俊二監督)」。岩井作品は初めて見る。

映像はまあシフォンケーキのようにフワフワしていてユニークだと思った。風景をデッサンのように切り取る手法は、それ自体ユニークで、まあ面白い。
ヒロスエや窪塚くんのライフのCMと同じように軽いタッチの映像で、日常の等身大描写には機能している。

韓国ではこの映画の人気が高いそうで、そのせいか「八月のクリスマス」や「イル・マーレ」と横並びで語られることもあるけれど、この二作品との最大の違いは、血の通った登場人物の存在を感じられるかどうかだと思う。呼吸して、体温があって、そして血を流すキャラクターがいるかいないか。その差はくらべようもないほど大きい。

ヒロインの博子(中山美穂)は、茂(豊川悦司)を自分の都合だけであしらっているように見えるし、彼にしても「無償の愛」を注ぎ過ぎているのが痛々しいし……というか、あまりの一方通行具合は現実感がどうしようもなく薄い。
そもそも、博子も茂も、死んだ樹にしても、誰をどう愛していたのか全く伝わってこないというか、どのキャラも観念論でプレイしているチェスの駒みたいで、実体や実感がまるで伝わってこない。
この映画の登場人物たちは、誰も愛していなければ誰も悲しんでいない。誰の死も悼んでいないマトリックスの住民だ。

もしかしたら、個人的な経験に引っぱられすぎてしまったのかもしれない。
……恋人と死別したときに、博子のような心の動きを持ったことはほとんどなかったし、茂のようなやさしさで接してくれた人もいたけれど、本当の意味で救いや赦しになったのは、ああいうセンチメンタリズムとは真逆のベクトルでつきあってくれた人たちだった。
男と女で違うのかもしれないにしても、ここまで空々しいと性差というよりも人間として納得できない。あまりにも違い過ぎることばかりなので、バカにされたような気分もしてきたくらいだ。

そして、一番理解できなかったのは、中山美穂を二役にする必然性だった。
もし、ラストのアレをやりたいだけだったとしたら、無用の悪者を一人作ってしまうようなものだし、余計にわからない。
涙の起爆剤として、いろんなトラップのある映画(“ラストのアレ”が最終兵器)だとは思ったけれど、なにもかも表層的でぬくもりが感じられない。この人はそんなに人間が嫌いなんだろうか。

タイトルは、日活ロマンポルノの「ラブレター(関根恵子主演)」とかぶってしまうから英語表記にしたんだろうか。
そうまでしてこだわった「ラブレター」。それが“アレ”だというのなら、これもまた底意地が悪すぎると思う。

……結局あれもこれも、何もかもよくわからない。これから岩井作品を見ることはないと思う。少なくともチケットを買ってまでは見たいと思わないだろう。

ある女性ミュージシャンは、作品がフランス映画のイメージソングに使われたり、一般には「都会派」とか「オシャレ」なんてイメージがある。
一方そのコンサートでは、悲しい歌を待ち構えて「それっ!」とばかりにワンワン泣きだす人がいたり、「貢ぎ物(ステージの下から順番にプレゼントを渡す)」が終了後の恒例行事になっていたりと、コアなファンたちにはちょっと異様なムードがあったりする(そしてそういう人たちは、彼女自身のようにオシャレではない)。
そんなふうに、アーティスト自身とファンのアピアランスにギャップがある場合っていうのは、しばしばあるけれど、岩井作品の場合はどうなんだろう。
こういう表面的なセンチメンタリズムで気持ちよくなれる人は、充分にイタイ人だと思う。

あと、どこの世界にあの程度の雪で救急車やタクシーが来なくなる「小樽市」があるんだか(それに北海道で家族の誰も免許を持ってない家庭なんてほぼあり得ない)。それにあの貯炭式のストーブ。あんなのはせいぜい1970年代の文化。そのへんが北海道出身者としては不満だったんだけど……まあパラレルワールドの話なんでしょう。